Pierre Celis

友だち追加

Pierre Celis  ピエール セリス

ベルギーのルーヴァン(世界一のビール会社インベブの本拠地)近くにヒューガルデンという村がある。その昔、この地方で栽培される小麦を利用したビールが盛んにこの地方で作られていた。当時は小麦以外の麦も様々に使われていたようである。
この長年にわたる醸造の歴史によりホワイトビールに適した酵母が出来上がっていったと考えられ、ヒューガルデン村の文献には、既に1318年にはビールが醸造されていたとあり、実際ヒューガルデンのビールのラベルにもsince1445と書かれていた事からもホワイトビールの歴史を感じる事ができる。

一時はこの村周辺だけで数十の醸造所がホワイトビールを作っていたものの、世界中がピルスナータイプのビールが主流になるなか、競争に勝てず次々と醸造所がなくなっていった。
1957年 ヒューガルデン村最後のホワイトビール醸造所であるトムシン醸造所も閉鎖してしまう。

トムシン醸造所の隣に住んでいた牛乳屋のピエール・セリスは
村からホワイトビールがなくなり、それから何年か立った頃でも村の会合などでホワイトビールを懐かしむ声を聞き、ふと考えた。
「私がホワイトビールを作り直したら、なつかしがっている人達相手に売れるかもしれない。」
これが彼のアイデアであり、廃業したレモネード工場から設備一式を買いとり、ホワイトビール造りを始める事となる。

ヒューガルデン村で復活したホワイトビールという事で村の名前をビールの銘柄とした。醸造所の名前は当時はデ・クライス(修道院)と呼ばれた。
昔のリバイバルで売り出そうと考えたピエールセリス氏の予想は外れてしまったが、とはいってもうれしい誤算だった。昔のビールのリバイバルのつもりが実際には若者に爆発的な人気をはくしはじめたのだ。ピルスナーになれた若者にとってはそのフレッシュな飲み口、フルーティーな味が逆に新鮮に感じられたのだった。
口コミでホワイトビールの噂は一気に広まり、ヨーロッパ中からヒューガルデンを求めて醸造所にビールを買いに来るようになった。

1967年に750hlだった生産量は1985年には75000hlとなっており、醸造所は成功したように誰にも見えた。
ところがその1985年、 ヒューガルデン醸造所(当時はデ・クライス醸造所)は火事で一部が焼失してしまう。セリス一人の財力では再興することができないほどになってしまっ たため、現在世界一のビール会社アンハイザー・ブッシュ・インベウ゛社(前インターブリュー)の傘下に入って醸造所の再開に力を注いだ。しかし、大会社の財務部署より利益のためにヒューガルデンのレシピ変更を迫られたセリスはこう答えた。
「もし最高のやり方でこのビールを醸造できないというのであれば、私はこのビールまたは売上げに何の責任も持つことはできない。」
こうして大きな醸造所とセリス氏の関係は終わりを遂げた。これによりセリスはヒューガルデンの味わいは今日に引き継がれなくなったと後日語られている。

しかし、セリス氏のビール造りへの情熱が失われる事はありえなかった。
ヒューガルデン醸造所の再建に力を尽くしたセリス氏には次の夢が生まれた。それは当時、マイクロブルワリー熱が高まって来ていたアメリカで自分のホワイトビールをまた広めたいという夢だったのだ。
1992年にアメリカに渡り、テキサスのオースチンに自らの名を関したブルワリー「セリス・ブルワリー」を設立し、セリス・ホワイトというホワイトビールの醸造に再び挑戦。その他、セリス・グランクリュやセリス・ペールボック等、またフルーツビールまで様々なビールを醸造することとなる。軌道に乗ったかのように見えた、セリスブルワリーだったが、またもや1995年にミラー社に買収される事となった。いまではミラー社がセリス・ブルワリーを閉鎖。

その後、セリスはヨーロッパ向けにデ・スメット醸造所(現アフリゲム醸造所)にてセリス・ホワイト等ライセンス生産を始めるが、デ・スメット醸造所がオランダ・ハイネケンに買収されてしまい、醸造をヴァン・スティーンベルグ醸造所とセント・ベルナルデュス醸造所に移して現在にいる。その間にもセリスは世界のビール愛好家に幾度も衝撃を与えた続けた。
そのビールの名はセント・ベルナルデュス・ホワイト。 彼がヒューガルデン、セリス・ホワイトに続いて醸造した最後のホワイトビールである。
そ してグロッテンビア(洞窟のビール)。セリスは数十年前にシャンパンを寝かせる洞窟を訪れた際に夢をもった。ビールをこのように洞窟にて熟成させたい。 その想いはここで現実となった。ビールの伝道師、マイケル・ジャクソンはこれを世界のベストビール10の1つと賞賛したのである。

このページのトップへ